「神様、どうぞ私を『お使いください』」
祈りの言葉として、あるいは精神世界を探求する中で、一度は出会うであろうこのフレーズを聞いた時、あなたはどう感じますか?
正直、私はずっとこの言葉が苦手でした。
心のどこかで、ザラリとした違和感と抵抗感を覚えていたのです。
まるで自分の意志を明け渡し、神様の言いなりになる「道具」になってしまうような…。そこには、一方的な自己犠牲と、どこか窮屈な主従関係の響きを感じていました。
私の魂が「それは違う」と叫んでいるような———そんな感覚。
しかし先日、その全ての違和感を溶かしてくれる真実に気づくことができたのです。
きっかけは、子どもに頼む「お使い」
その気づきの扉を開けてくれたのは、私たちが日常で何気なく使っている「お使い」という言葉でした。
親が、自分の子どもに「〇〇、ちょっとお使い、お願いできるかな?」と頼む時。 その親の心の中にあるのは、何でしょうか。
子どもを便利な「道具」として見下す気持ちでしょうか?
いいえ、絶対に違いますよね。
そこにあるのは、「この子ならできる」という信頼です。 この経験を通して、少しでも成長してほしいという愛情です。 そして、家族の一員としての役割を担う喜びを感じてほしいという願いです。
親は、子どもを一人の人格として認め、信頼しているからこそ「お使い」を“お願い”するのです。
頼まれた子どもは、どうでしょう。
少しドキドキしながらも、「お母さんに頼りにされている!」という、誇らしい気持ちで胸がいっぱいになります。その使命感が、子どもの中に眠る主体性と責任感を、キラキラと輝かせるのです。
「お使い」=「御使い(神の使い)」
この瞬間、私の中でバラバラだったパズルが、カチリと音を立ててはまりました。
私たちが神様に対して使う「お使い」も、これと全く同じなのではないか。 神様は、私たちを愛し、信頼し、その成長を心から願う親のような存在。
そして、私たち一人ひとりの個性と能力を完璧に信じているからこそ、 「この世界で、あなたにしかできない『御使い』をお願いできないだろうか?」 と、常に語りかけてくれている。
そう、ここで言う「お使い」とは、「御使い」。 神の意志を地上で実現する、誇り高き**「神の使い」**のことだったのです。
この視点に立った時、あの忌避感のあった祈りの言葉が、全く違う意味を持ち始めました。
私たちが神様に向かって言う「お使いください」という言葉は、
「私を道具として使ってください…」 という、自分を卑下する懇願ではなかった。
そうではなく、
「お父さん! 私にも何か『お使い』をちょうだい! ちゃんとできるよ!」
という、喜びに満ちた、主体的な立候補だったのです。 それは、神様との信頼関係を前提とした、誇り高き魂の宣言。
「神様、私を信頼して、あなたの『御使い』としての役目を与えてください!」
「あなたの計画を、私という最高の個性を通して、この地上で実現させてください!」
「お使いください」という言葉が嫌いだったのは、私の魂が、自分が奴隷や道具ではないことを知っていたから。
そして今、その言葉の本当の意味に触れた時、魂が震えるほどの喜びに満たされるのは、自分が誇り高き「神の使い」であることを、心の底から思い出したからなのでしょう。
もし、あなたがかつての私のように、この言葉に違和感を覚えていたとしても、それはあなたの魂が健全である証拠です。
あなたの魂は、奴隷になることを拒んだのです。 そして今、神様と手を取り合う、誇り高きパートナーになる道を見つけました。
さあ、神様と一緒に。
あなただけの「御使い」に、喜び勇んで出かけませんか。